2013年7月20日土曜日

制約こそ動機になる

伝えたいものがあってこそ作品づくりが始まる、とよく言われるけれど、僕は音楽の中で何かを伝えたいわけでも、何かを伝える手段に音楽を選んでいるわけでもない。あえていうなら単純に音楽を作りたい、いや、音楽そのものを伝えたいのだと思う。

歌を作ろうとしても曲先にすると昭和歌謡曲かエセ合唱曲になってしまうし、気の利いた歌詞を思いつくわけでもない。だから歌を作ろうとしても気がついたら挫折している。
ふと耳に流れてきて心に留まった旋律をただ自分の快感を求めて展開すると、大編成のオーケストラ向けの長大曲になってしまう。…なってしまう、といえば聞こえはいい。実際は頭の中でそうなっているだけで、譜面を完成させたり打ち込みを終える前にこんがらがってしまって挫折する。だから僕の作曲フォルダには、何やら壮大な曲が始まるなりオケが突然ぷつっとストライキするようなプロジェクトばかり転がっていて、滅多にその完成をみない。旋律メモはノート何冊にも及ぶが終止線などまだ数本しか引かれていないと思われる。

そういう僕にとって、作る動機となる重要な要素が「制約」だ。主にアマチュアの自主映画に音楽をつけてきたために、何分何秒で、このシーンに合う、こういう雰囲気の音楽、という作り方に慣れているからかもしれない。
演劇の仕事をさせて頂いたときは、具体的な制約に加えて、演技が完成しない段階の脚本であったり、何秒で通過するか本番まで分からないシーン所要時間といった曖昧な制約が制作を苦しめた。

それでも、その制約(ときには曖昧であらねばならないという制約)の中で最大限に良いものを、クライアントに満足して頂けるものを作ろうとすることが、そしてさらにミクロなところでは、BGMであり演劇サントラであることを踏まえた上でなお一つの独立した音楽作品にしたいという気持ちが、逆に作曲に向かう姿勢をより前のめりにした。
映像作品の場合も、何分何秒で誰々がこうする部分に合わせてこの音を…という制約が逆に音楽の輪郭や区切れを作っていく。

一見たいそうなことを書いてしまったが、僕はまだ駆け出しの音楽家にさえなれていない。経験を積まねば、そしてそれを持って自分を売り込まねばならない。頭に流れてきた旋律が終わりを見せないならば、自分に制約、あるいは注文や仕様を課してなんとしても完成させねばならない。だからもっともっと、できれば他人が関わるような形で活動していかなくてはならない。
残念ながらこの春から長い無気力状態が続いていて、今まで大好きだったものまで切り捨ててしまう有様だけれど、そこまで堕ちてもなお音楽だけは好きだと断言できる。そろそろ起き上がって、少しずつでも、また活動できたらいいなと思う。まだ「できたらいいな」の段階だから重症だけれど。始めなきゃ、始まらないものね。

初投稿にして長文失礼しました。